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私はアフガニスタン人のハザラ族です。

この記事を読んで、記事の中で事実とは違う点がありました。

 

それは、ハザラ族の起源についてです。この記事ではハザラ族はモンゴル人の末裔と述べられていますが、実際はハザラ族は人種的にモンゴロイドですが、モンゴル語ではなく、昔からダリ語の方言であるハザラ語を話していましたし、ハザラ語にモンゴル語の語彙の影響もまったく残っていません。

そして、歴史的にもバーミヤーンの仏像が作られたときにはすでにその地に住んでいて、チンギスハーンの襲来はそのずいぶん後の出来事です。タリバンでさえ、ハザラ族はモンゴルへ帰れとは言っていません。

これらのことから、ハザラ族がモンゴル系もしくはチンギスハーンの襲来時の末裔というのは誤りだといえます。

 

by アラヤリ アブドルラウフ

 

 

文=フィル・ザブリスキー 写真=スティーブ・マッカリー

アフガニスタン中央の不毛の地に暮らす民族ハザラ。顔だちや信仰がちがうために、武装勢力タリバンから長く虐げられてきたが、民主化への移行でようやく希望の光が見えてきた。

 シルクロードの隊商や宗教の伝道師、さまざまな旅人が、その前を行き交ったにちがいない。巨大な石仏は、1500年もの長いあいだ、このバーミヤーンの地を見守ってきた。モンゴル帝国やムガル帝国、ソ連の密使たちも通ったはずだ。やがてアフガニスタンという国ができると、いくつもの体制が誕生しては崩壊した。石仏はそんな歴史の証人でもあった。

 20013月、そのころアフガニスタンを支配していた武装勢力のタリバンは、何日にもわたってこの石仏に砲撃を加えたあげく、ダイナマイトを仕掛けて完全に破壊してしまった。

 彼らにとって石仏は、イスラム信仰では崇拝することのない、岩に刻まれた偶像でしかなかった。もともと政治的に孤立していたタリバンは、国際社会の非難などものともせず、歴史や文化より信仰を重んじる態度をはっきりと表明した。そして同時に、石仏のまなざしのもとで暮らしていた人びと――ハザラ人に、彼らの力を見せつけたのだった。

 ハザラ人は、アフガニスタン中央部の高原地帯、ハザラジャートと呼ばれる地域に暮らす。自らの意志で選んだかどうかはともかく、ここが彼らの土地だ。ハザラ人はアフガニスタン全人口の10%以上を占めていて、そのほとんどがイスラム教シーア派の信者である。そのため、スンニ派優勢の同国では、昔からのけ者扱いされてきた。働き者として知られるハザラ人だが、回ってくるのは人がいやがるような仕事ばかり。細い目に平たい鼻、張りだした頬骨というアジア的な風貌からか、ほかのアフガニスタン人から一段下に見られることが多いのだ。自分たちは劣っていると思いこみ、そんな扱いに甘んじるハザラ人も少なくない。

 アフガニスタンを支配するタリバン勢力は、スンニ派の原理主義を信奉するパシュトゥン人がほとんどを占める。彼らはハザラ人を異端者だとか、けだもの呼ばわりしてきた。顔つきがアフガニスタン人らしくなく、信仰もイスラム教徒らしくないからというのだ

 

タリバンがよく口にするのはこんな言葉だ。「タジク人はタジキスタンへ帰れ、ウズベク人はウズベキスタンへ帰れ、そしてハザラ人はゴリスタンへ帰れ」。ゴリスタンとは墓場のことだ。実際、タリバンは石仏を破壊した当時、ハザラジャートを包囲して村々を焼きはらい、人の住めない土地にしようとしていた。厳しい冬を越せないかもしれない――ハザラ人がそんな不安におののいていた矢先、米国で911同時多発テロが発生した。遠い国で起きたこの悲劇が、タリバン政権の崩壊をもたらし、はからずもハザラ人の窮地を救うきっかけとなる。

 それから6年後の現在、ハザラジャートにはまだ迫害の傷跡が残るものの、希望の光も見えてきた。10年前には考えられなかったことだ。ハミド・カルザイ大統領率いるカブール中央政府の統治に変わり、いまのハザラジャートはアフガニスタンで最も安全な土地になった。他の地域とちがって麻薬の原料となるケシ畑もほとんどない。それまで大学に入学できず、公務員になれなかったハザラ人にも、次々と権利が認められつつある。副大統領のひとりはハザラ人だし、議会で得票数トップの議員もそうだ。国内唯一の女性州知事もハザラ人である。

 20年以上続いた内戦で荒廃しきったアフガニスタンだが、ようやく再建に向けて動きだしている。そのなかでハザラジャートは、ハザラ人のみならず全国民にとって、未来を象徴する存在と考える人は多い。しかし、過去の忌まわしい記憶や、進まない国土整備へのいらだち、巻き返しを図るタリバンやスンニ派過激グループへの不安が、そんな楽観論に水を差す。

 破壊された石仏の破片を集めて再建するプロジェクトも進んでいる。ハザラ人の悲惨な過去を修復する試みもそれに似ているが、ひとつ大きな違いがある。仏像なら写真が残っているから、その通りに復元すればいい。しかしハザラ人には迫害されなかった過去などない。そのため、希望に満ちた将来像を、彼ら自身も描けずにいるのである。

 28歳の青年ムサ・シャファクは、それでも未来に夢を託している。黒々とした髪を肩まで伸ばし、いかにもハザラ人といった顔だち。どことなくバーミヤーンの石仏にも似ている。薄い色のついたメガネをかけたシャファクは、赤いセーターに黒のジーンズ姿で、首都の名門カブール大学の正門前に立っていた。

 彼はあと2カ月で大学を卒業する。この国の不安定な状況を考えると、よくがんばった。ハザラ人である彼の成功は、新しい時代の訪れを告げている。シャファクはクラスでトップの成績なので、念願通りカブール大学の教職に就けるはずだ。

 「教育を受け、熱意と希望にあふれたハザラ人の若者が続々出てきています。彼らは新体制になって与えられた機会を確実につかんでいるのです」と語るのは、アフガニスタン駐在EU特別代表代理を務めるマイケル・センプルだ(2007年末、タリバンと接触したとして政府から国外退去を命じられた)。

 シャファクは、ハザラ人学生たちの組織「対話センター」の設立にも尽力した。組織のメンバーは現在150人で、雑誌を発行したり、「人道主義と多元主義」を呼びかけるイベントを催しているほか、人権団体と協力して選挙監視にも当たっている。「僕たちにはチャンスの窓が開かれています。でもその窓は、いつまた閉じるかわかりません」と、シャファクは言う。

 彼は、田舎から都会に出てきて成功した典型的な例だ。シャファクの出身は、バーミヤーン州南部のワラス郡、ハフト・ゴディ村だ。父親はそこで農作物を育てるかたわら、郡の中心部でレストランを経営していた。この地域では子どもたちが大きくなっても、村を出ることはほとんどない。多くは若いうちに結婚し、ジャガイモ畑を耕して暮らす。

 しかしシャファクは、もっとちがう人生を歩みたかった。そこで彼は、父親の手伝いをしながら、空いた時間にむさぼるように本を読んだ。小説、歴史書、哲学書、リンカーンやジョン・ロック、アルベール・カミュの著作の翻訳など、手当たりしだいに読みあさった

 

シャファクは子どものころから、ハザラ人の伝説を何度となく聞いていた。自分たちの先祖はどこから来たのか。なぜ自分たちはパシュトゥン人やタジク人とちがう顔だちをしているのか。

 伝説によると、ハザラ人の祖先はチンギス・ハーンに仕えたモンゴル帝国の兵士たちにさかのぼるという。13世紀、アフガニスタンに侵入した彼らは要塞を築き、住民たちを征服した。住民と言っても、シルクロード沿いに暮らすさまざまな民族が混在していた。その住民たちが蜂起してチンギス・ハーンの息子を倒すと、征服者は報復としてバーミヤーンに猛攻撃を加え、住民のほとんどを虐殺した。

 やがてモンゴル人兵士と、かろうじて生き残った住民が、長いあいだともに暮らすうち、同化が進んでハザラ人と呼ばれる集団が形づくられていったようだ。現在、この地域の人びとの顔だちがとても変化に富んでいるのは、こうした遍歴のあらわれなのかもしれない。

 最近では、チンギス・ハーンとのつながりを誇りにするハザラ人もいるが、よそ者の血を引くことは、昔から明らかに不利だった。それを物語る最初の事件が、1890年代に起こったハザラ人の大量虐殺である。パシュトゥン人だったアブドゥル・ラーマン王のもと、狂信的な愛国主義と、ハザラ人を異端と決めつけるスンニ派ムッラー(聖職者)の裁定を背景に、ハザラジャートとその周辺で数千人が殺され、生き残った者も奴隷にされるなどした。

 大勢のハザラ人が、それまで農業を営んでいた低地から追いやられ、中央の高地に逃げこんだ。その後の統治者たちも、武力はもちろん、法律や人心操作などあらゆる手を使い、ハザラ人を物理的にも心理的にも、その高地に閉じこめてきたのである。

 「自分がハザラ人だと名乗るのは、恥ずかしいことだったんです」と、バーミヤーン州のハビバ・サラビ知事は語る。2005年の議会選挙で最多の票を集めた元軍司令官モハメッド・モハケクも、「私たちハザラ人は、ロバのように、ある場所から別の場所にものを運ぶだけの存在でした」と、かつての彼らの境遇を振り返る。

 1996年、タリバンは、民族間の争いに疲れきった国民に、安全を約束して政権を掌握した。このときシャファクは学校の10年生だった。だがその1年前、タリバンは「ハザラ人の父」とよばれたカリスマ的政治指導者のアブドゥル・アリ・マザリを殺害している。マザリは、ハザラ人同士の抗争に終止符を打つべく「イスラム統一党」を創設したが、彼の死後、統一党は分裂し、タリバン勢力がそれに乗じてハザラジャートに入りこんだ。

 シャファクはそのときのことを回想する。「父と畑仕事をしていたら、妹が走ってきて言ったんです。『タリバンがあちこちにいる』と」。村人たちは肥料の袋を白旗がわりに掲げ、地元の代表は必死でタリバンに取り入った。シャファクは家にあった本を隠した。

 そして醜い戦いが始まった。バーミヤーン州では、タリバンの制圧下に入っていない数少ない地域を奪われてなるものかと、イスラム統一党の闘士たちが躍起になった。学校は閉鎖され、農地は荒れ放題だった。住民は国境を越えてイランに逃げるか、山にこもった。タリバンはハザラジャートの交通を封鎖し、ただでさえ干ばつで不作だったこの地域を兵糧攻めにする。バーミヤーンのバザールは火がつけられ、大勢の人が石仏の近くの石窟に避難した。

 2001年はじめ、厳冬のハザラジャート、ヤカウラン郡で悲劇が起こる。18日、タリバンはハザラ人の青年を中心部のナヤクに集めた。「彼らは裁判にかけられるのだと誰もが思っていました」。近くのカタ・コーナ村で教師をしているサイード・ジャワール・アマルはそう振り返る。「ところが午前8時、全員が殺されたのです」

 青年たちは一列に並ばされ、衆人環視のもとで銃殺された。青年たちについて問いつめる老人たちも、同じように殺された。人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、4日間で170人以上が殺されたという。「私たちがシーア派だから。理由はそれだけです」と、カタ・コーナ村に住む55歳のモーシン・モイサフィドは言う。彼はその日に二人の弟を失った。

 

 2週間後、ふたたび戦闘が始まった。ヒューマン・ライツ・ウォッチの調査では、タリバンは4000戸の住宅、商店、公共建造物を焼きはらった。バーミヤーン州西部では、徹底的に破壊され消滅した町もいくつかあった。

 シャファクが父母や6人の兄弟姉妹と食料不足に苦しみながら暮らすワラス郡にも、大勢の避難民が押し寄せてきた。シャファクは自分の勉強を中断して学校で教えざるをえなくなった。ハザラジャートの学校には、小学校さえ終えていない教師がたくさんいる。シャファクは夢をあきらめはじめていた。「タリバンはまだ1020年は居座ると思っていたので、希望を持つことができませんでした」

 タリバンによる攻撃が頂点に達したとき、米国ニューヨーク州の世界貿易センタービルと、バージニア州の国防総省に飛行機が突っこんだ。911同時多発テロだ。この事件はアフガニスタンの歴史を急展開させたとマイケル・センプルは語る。彼は生命の危険にさらされながらも、2001年のヤカウラン虐殺の実情を記録した。米軍がタリバンを政権から引きずりおろすと、希望が芽ばえてきた。とくにハザラ人は、これで弾圧から解放されると期待した。

 しかし、シャファクのように、そんな状況にも不安をぬぐえないハザラ人もいた。「僕が目標にしているのは、若者たちの夢がかなう国。キリスト教会やヒンドゥー教寺院など、ほかの宗教も共存できる国です。それをめざすのが多元主義だと思っています」

 シャファクの夢は二つある。ひとつはカブール大学で教職に就くこと、もうひとつは地元でいまの恋人と結婚式を挙げることだ。相手はシーア派のなかでも、系図をたどれば預言者ムハンマド(マホメット)に行きつくという由緒正しい家柄の女性だ。これまでなら、ハザラ人の男との結婚を親が許すなど想像する余地もなかった。でも、いまなら可能性がある。

 ハザラジャートは、そこに暮らす者にとって苦難の歴史がしみこんだ厳しい土地だ。しかしそんな土地でも、人びとははいつくばって生きていくしかない。

この続きは、ナショナル ジオグラフィック日本版20082月号でお楽しみください。

 

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最終更新日 : 2010/05/22 .